50歳までにセミリタイアときどきソロキャンプ

私は現在45歳で、49歳12月までにサイドFIREをめざしています。

沖縄への想い①

 

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イダの浜

 私の人生、「沖縄」との縁が意外と深いんです。まったく関わりのなかった「沖縄」とはじめて結ばれたのは高校の修学旅行でした。その時は特段、沖縄への思い入れも無く、旅行もただただ馬鹿騒ぎして終わりという高校生らしい旅行でした。

 大学に入り、地元の大阪で暮らしていましたが、バイクで沖縄を1周したいと思い、友人とフェリーで沖縄本島へおりたち、2週間ほど旅をしました。

 

 そして大学卒業、就職が内定していた企業から配属先が発表されます。全国に支店がある企業であり、面接時に沖縄の話を少しした記憶がありますが、初めての配属先が「沖縄」でした。知り合いがいるわけでもありませんが、なぜか「沖縄」に引き寄せられることになりますー

 

 その後3年ほど沖縄で暮らしていましたが、その企業を退職し地元へ戻ります。沖縄で暮らした3年間で「沖縄」には数多くの離島があり、その離島にこそ沖縄の魅力がつまっているんだと実感しました。

 

 地元に戻ってから「沖縄ロス」が毎年のように押し寄せてきます。そしてほぼ毎年のように沖縄へ向かうことになりますー

 楽しい生活ばかりでは無かった、本土から来る人間に対する抵抗も感じました。旅行者にはわからないナイチャーへの拒否反応を肌で感じ、時に優しさにふれあいながら3年という時間を「過ごせた」からこそ、またここに戻りたいと毎年思うようになりました。

 少し「沖縄」の話つづけます。

「深夜特急に思う」海外バッグパッカーの旅について-7(イタリア南部編)

 

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イタリアを巡る

もう何年前になるでしょうか。私が19歳の時この本にあこがれてヨーロッパやアジアをバッグパック1つ背負って旅をしていました。25年たった今も強烈に記憶の断片に残り続ける、私の一生において欠かすことのできない旅の数々です。

 

「インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合いバスで行ってみたい――。ある日そう思い立った26歳の〈私〉は、仕事をすべて投げ出して旅に出た。途中立ち寄った香港では、街の熱気に酔い痴れて、思わぬ長居をしてしまう。マカオでは、「大小(タイスウ)」というサイコロ博奕に魅せられ、あわや……。一年以上にわたるユーラシア放浪の旅が今、幕を開けた。いざ、遠路二万キロ彼方のロンドンへ!」

 沢木耕太郎著「深夜特急」より

 

<25年以上も昔のヨーロッパ貧乏旅行>

 大学の頃、沢木耕太郎さんの「深夜特急」に出会いました。インドのデリーからロンドンまで乗合バスで行くルポルタージュなのですが、当時学生だった私の脳裏に刻み込まれる内容でした。同じことはできないけれど、私はギリシャアテネからイタリア、フランスパリ、そして南下しスペインバルセロナからマドリードを終着点とし、旅を遂行しようと考えました。期間は決めずに、できるだけ自由に、ユーレイルパスを握りしめヨーロッパ放浪の旅はスタートしましたー

 

<イタリアを巡る>

 夕暮れのフェリーから眺めるパトラ(ギリシャ)の街は穏やかで、日本にもあるかのようなそれほど大きくは無い港町のように感じました。ギリシャを離れる寂しさや、この旅初めての出国、フェリーチケットの入手など苦労したこともあり、フェリーの部屋へ戻るとあっという間に寝入ってしまいます。

 そして次の日ー。イタリアのバーリへフェリーは到着します。私の記憶ではバーリのイメージはかなり薄く、それほど大きく無い街だったような気がします。ギリシャアテネのようにあてどなく歩き続けるわけもなく、フェリーで街に到着後すぐにローマへの列車を探しました。

 

 イタリアではだいたい訪問先を決めておりました。ルートは南から北上し、東に位置するヴェネチア経由、ミラノから南仏へ抜けていくルートを選びました。

 最初の目的地はローマ、そして中央に位置するフィレンツェ、東に流れてヴェネツィア、そしてイタリアの首都ミラノです。

 バーリから列車にのり6時間、イタリアを代表とするローマの街へ移動します。列車に関してはユーレイルパス(ヨーロッパ列車を自由に乗れるパス)を持参していたので、予約などは不要でした。ローマに到着した私はさっそくカタコトの英語でユースホステルを探します。ところが、ユースホステルはなかなか見つけることができず、適当な安宿に泊まることにしました。価格も安く、快適な宿が多かったのが印象です。

 

 おきまりのスペイン広場、カラカラ浴場、コロッセオ、真実の口、トレビの泉など観光地はほとんど回りました。実にイタリアらしい風景に出会える街でしたが、私にとってなぜか物足りなさを感じていました。コロッセオもスペイン広場もトレビの泉も・・また真実の口にも手を突っ込みましたが、アテネの街を彷徨い歩いたあの感覚にはなれませんでした。あまりにも観光地化されすぎている都会のローマが私のこの旅に合わなかったんだと後から思いました。

 

 ローマ滞在を2日ほどで切り上げ、私はイタリアを北上しフィレンツェを目指すことにしましたー アテネのあの感覚が忘れられずに、その影を追っていたような気がします。 <続く>

 

apollooman.hatenablog.com

 

「深夜特急に思う」海外バッグパッカーの旅について⑥ギリシャ〜イタリアへ

 

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ギリシャ〜イタリアへ

もう何年前になるでしょうか。私が19歳の時この本にあこがれてヨーロッパやアジアをバッグパック1つ背負って旅をしていました。25年たった今も強烈に記憶の断片に残り続ける、私の一生において欠かすことのできない旅の数々です。

 

「インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合いバスで行ってみたい――。ある日そう思い立った26歳の〈私〉は、仕事をすべて投げ出して旅に出た。途中立ち寄った香港では、街の熱気に酔い痴れて、思わぬ長居をしてしまう。マカオでは、「大小(タイスウ)」というサイコロ博奕に魅せられ、あわや……。一年以上にわたるユーラシア放浪の旅が今、幕を開けた。いざ、遠路二万キロ彼方のロンドンへ!」

 沢木耕太郎著「深夜特急」より

 

<25年以上も昔のヨーロッパ貧乏旅行>

 大学の頃、沢木耕太郎さんの「深夜特急」に出会いました。インドのデリーからロンドンまで乗合バスで行くルポルタージュなのですが、当時学生だった私の脳裏に刻み込まれる内容でした。同じことはできないけれど、私はギリシャアテネからイタリア、フランスパリ、そして南下しスペインバルセロナからマドリードを終着点とし、旅を遂行しようと考えました。期間は決めずに、できるだけ自由に、ユーレイルパスを握りしめヨーロッパ放浪の旅はスタートしましたー

 

<ようやくギリシャアテネを離れイタリアへ>

 私はアテネの街をひたすら歩きました。パルテノン神殿やオリンピック発祥の地など行けるところはできるだけ足を運びました。お気に入りがあれば何時間も滞在し、眺め続けました。整然とされていないこのアジアチックな街並みが、とても気に入ったんだと思います。暑さしのぎにカフェに入り、1杯のフラッペを飲みながら、行き交う人々を眺め続けるのも悪く有りませんでした。

 

 ようやく重い腰を上げたのがちょうど旅をスタートさせてから2週間が経っていました。私は2週間も経っているのに、まだ旅のスタート地点から旅をスタートしていないことにやや戸惑いましたが、時間に縛られることもない旅であり、行きたいところに行き、好きなだけ滞在する喜びをかみしめていました。

 

 アテネを出ようと決めた時から、次の目的地は決まっていました。ギリシャはこれで見納め。次はイタリアへ渡るつもりです。ギリシャの港町パトラへ列車を乗り継ぎ、パトラでフェリーに乗る手筈を取りました。英語もイタリア語もほとんど話せないので、しかも出国審査(簡易的)とフェリーチケットを購入するのに手間取りましたが、無事チケットを入手しフェリーに乗り込みます。夕方くらいの出発で翌朝にイタリアへ到着する模様でした。

 

 フェリーから離れゆくこの旅最初の国であるギリシャを眺め、いざイタリアへ!

                             <続く>

apollooman.hatenablog.com

 

札幌への転勤-1 「転勤について」

 

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函館うにむらかみのウニ丼

<東京から札幌へ>

 私にとって転勤はさほど驚きでもなければ、立ち止まって思い切った決断を迫られるわけでもなく、独り身である私にとっては振り返ることもさほどない。こういう人間は会社にとって好都合で、第一に定期的な人事異動の際の一つのコマにされる。

 時に現在はコロナ禍であり、かつ東京では5000人を超える新規感染者が毎日のように出ている。よって休日はほとんどと言っていいほど外出をしない。スーパーに食料品を買いに行く程度である。そうすると、ここが東京であろうが沖縄であろうが、札幌であろうがもはや関係なくなるのである。

 唯一の気がかりは実家で一人暮らしをしている母親のことぐらいだ。しかし、すでに関西から遠く離れた東京で6年を経過していることと、正直東京から関西と札幌から関西は帰省時間はほぼ変わらない(新幹線と飛行機)。

 

 今まで会社に命じられた転勤は4回ほどになる。どの道、MAXでも49歳12月と想定しているこの会社員生活。残り4年と少しなのだー

 転勤を命ずる会社に少しの理不尽さは感じるものの、それは会社と契約し、合意の元での転勤となり、そこに不満を感じることはほとんどなかった。

 

 今年の12月を終えた段階で、セミリタイアへ踏み切る可能性をいろいろ考えて、シュミレートを重ねてきた。たぶん余裕をもってもいけるだろうなという確信もあった。それでも会社員生活の最後に何か頑張った足跡だけは残したいと思う。

 それは会社に対してではなく、その後訪れる「セミリタイア生活」とその後の私の人生のためにも、そうすることが必然だと今改めて思う。

 

 さあ、引越しの準備をしようー

「札幌へ転勤」最後の大勝負

 

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最後の大勝負

 

<サラリーマンの宿命・札幌へ転勤へ>

 セミリタイアスタートリミットの49歳12月までおよそ4年半となったこの7月末、会社から転勤を言い渡される。現在は東京の離れ街で住んでいるが、6年を超えてそろそろ転勤の頃かなと思っていた矢先だった。

 実は46歳1月からセミリタイアができるか入念にシミュレーションを重ね、余裕を見てもセミリタイアが可能である試算ができていた。転勤を断ることができていた状況ではあったが、私は最後の勝負がしたいと札幌行きを即決するー

 

 思えば大学を卒業して一番最初に働いたのが沖縄。そして巡り巡り地元の大阪、東京での転勤生活を経て、地元へ戻れるかと思いきや私のサラリーマン人生の終着点は「札幌」となりそうです。転勤のおおよその期間は5年〜7年。もう次の転勤は私の計画では有り得ないので、この日本の最南端からスタートした社会人生活も、最終は最北端の北海道で終わりそうだ。

 

 なんて巡り合わせだ。感慨深く「札幌転勤」を噛み締める。もちろん縁もゆかりも友達もないが、それは東京にしても、沖縄にしても最初はそうだった。そしてこれで転勤を命じられることも終わり。札幌の次はセミリタイアを達成し、自らの望む地へ帰還することだろう。

 

 そして、最後の大勝負。最後の集大成のつもりで札幌で仕事を満喫しようー

そしてリミットの49歳12月、今から4年と数ヶ月ののちに私は札幌の地を後にするのだ。自由はもうすぐそこにあるー

資産運用レポート24

 セミリタイアまでの道のりとして、労働、不労所得にかかわらず毎月5万円(税引き後)を取得することが現在の目標となります。セミリタイアまでの道のりは遠くない状況にあります。

 

 現在45歳独身ということもあり、セミリタイアへの準備は着々と進めておりました。計算上の様々なシミュレーションをしていく中で、セミリタイアの年齢を前倒しする計算も現在実施しております。49歳12月が目標で、早まる可能性も考えてシミュレートしております。労働、不労所得にかかわらず毎月5万円が収入として入ると、より自由で行動的なセミリタイアに踏み切ることができてきそうです。

<7月第5週および7月総括>

 今週は上げ相場となりましたね。7/30金曜日の相場は日経は大きく下落しております。7月全体的に言うと、SP500順調に推移したものの、利幅の増加率は私が統計を取り始めた昨年10月から比べると、一番最低となりました。

 

 ここまで9ヶ月間、ほんとにうなぎ登りだった株式市場もその増加率に明らかな翳りを感じました。SP500指数については4400ポイント付近が、今年のトップだと予想されているところもいくつかあり(今年年初に予想)、どうやらこのあたりを境に下落、上昇を繰り返しそうな気もします。

 

 まあ、焦らずにいきましょう。長期投資ですので、投資を忘れるくらいが一番良いかと思います。

 

 

<投資金額> 1674万

<含み益> 306万(前週+11万)(先月比+5万)

<利率>18%

※ 7/30(金)相場は含まず

 

「深夜特急に思う」海外バッグパッカーの旅について⑤ギリシャ編(スタート地)

 

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アテネからマドリード

もう何年前になるでしょうか。私が19歳の時この本にあこがれてヨーロッパやアジアをバッグパック1つ背負って旅をしていました。25年たった今も強烈に記憶の断片に残り続ける、私の一生において欠かすことのできない旅の数々です。

 

「インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合いバスで行ってみたい――。ある日そう思い立った26歳の〈私〉は、仕事をすべて投げ出して旅に出た。途中立ち寄った香港では、街の熱気に酔い痴れて、思わぬ長居をしてしまう。マカオでは、「大小(タイスウ)」というサイコロ博奕に魅せられ、あわや……。一年以上にわたるユーラシア放浪の旅が今、幕を開けた。いざ、遠路二万キロ彼方のロンドンへ!」

 沢木耕太郎著「深夜特急」より

 

<25年以上も昔のヨーロッパ貧乏旅行>

 大学の頃、沢木耕太郎さんの「深夜特急」に出会いました。インドのデリーからロンドンまで乗合バスで行くルポルタージュなのですが、当時学生だった私の脳裏に刻み込まれる内容でした。同じことはできないけれど、私はギリシャアテネからイタリア、フランスパリ、そして南下しスペインバルセロナからマドリードを終着点とし、旅を遂行しようと考えました。期間は決めずに、できるだけ自由に、ユーレイルパスを握りしめヨーロッパ放浪の旅はスタートしましたー

 

 学生だったので、アルバイトを重ね夕方から早朝まで働き、大学へ通う日々がスタートしました。旅のスタイルはとにかく予算は抑えて、できるかぎり長期にヨーロッパを巡ろうと考えておりました。

 

 もちろんたった一人の旅です。まずはヨーロッパの東に位置するギリシャへ向けて飛行機を乗り継ぎます。そう、スタート地はギリシャアテネに決定しました。到着時はちょうど7月始めで40度近く気温も上がってましたが、湿度が極端になく快適だったのを覚えています。

 

 スタート地にもかかわらず、結局ギリシャアテネから出るのに2週間ほど、アテネの街を歩き回りました。宿泊先はユースホステルで、いろいろな国の方々とかたことの英語で情報交換をし、アテネアクロポリスへ行ってみてみては神殿を眺めたり、また偶然、金メダリストのマイケルジョンソンにも出会いました。

 

 アテネの街は実に居心地が良かったんですね。何をするでもなく適当なカフェでフラッペを飲みながら、街ゆく人々を眺めては過ごした記憶があります。どちらかというと綺麗な街並みというよりは、アテネオリンピック前の町中工事だらけの印象でしたが、どことなく雑然としている中で遠くにそびえるアクロポリスが印象的でした。

 

 雑然さと、とてつもなく青い空、40度近い気温でも日本のようにまとわりつかない快適な湿度、このような条件が重なり私はアテネの町中を歩き続けました。

 ちなみに私は英語もフランス語もイタリア語もスペイン語も話せません。ほんとうにカタコトの英語とジェスチャーしか持ち合わせてませんでした。旅立つ前に考えたのが、フランスではフランス語で(英語を嫌う傾向がある?)、イタリアではイタリア語、スペインではスペイン語ということで、そんなに話せるわけないと考え、深く考えないことにしたんです。

 

 そして出発地点のアテネで思いもよらぬ2週間を過ごし、ようやくマドリードまでの旅をスタートさせることにしましたー  続く

 

 

apollooman.hatenablog.com